「まぁまぁ、どうぞ一杯」
「あぁどうもどうも、ありがとうございます」
よく聞く会話。よくある社交的行為のひとつ。目上の人に「まぁどうぞ」、目下の人に「まぁ飲め飲め」。
おそらくは日本の大人の9割以上は知っていて、殆どの人が経験・見たことがあるだろう。誰もがそうするし、そうすることが「よいこと」とまで言われる慣習だ。
「もったいないよ?」
そこへもしこう一言、子どもが口を挟んだら、一体その大人はどう答えるのか。
子どもは感受性が豊かだ。思うこと感じること、その多くが、大人が忘れ気づかなくなってしまったことにまで及ぶ。
「もったいない」
社会的に「マナー」とまで言われもてはやされる「酒の注ぎあい」は、純粋な子どもにとってはそもそも理解できるはずもない単に「もったいない」だけの行為だ。しかし、そんな純粋で感受性豊かな子どもたちが、「最近の子どもはモノを大切にしない」と言われるようになるには、この行為はとても大きな意味をもっている。
子どもは大人を見て育つ。それは誰もが知っている。が、"社交性に優れた"大人の「マナー」が、子どもたちに対してどれほどの影響を及ぼしているかを知る大人は少ない。あるいは、その影響を(既に気づかれているのに)必死に隠そうとし、また誤魔化そうとする。
子どもがそんな大人たちの"立派な姿"を見て、それはそれは純粋に真っ直ぐに、"ごく自然に"その「マナー」を、「これは『美』なのだ」と意識する。
ここに「浪費のサラブレッド」が誕生する。
実に単純だ。大人社会が、社会全体として「もったいない」を許容し「美」と意識しさえしている中、子どもたちがそれを"子どもなりに"実践するのはごく自然なこと(酒の注ぎあいがよいことなら、お菓子を残すこともよいことだと理解するだろう)。寧ろ「もったいない」といってその"マナー"とやらを、"社交性"とやらを捨てる大人に育っていくことのほうがよっぽど不自然だ。
よく、「昔の子どもはモノをとても大切にしていた」と言って今の子どもたちを諭し、あるいは非難する、高齢の方がいる。惜しい!あなたたちの時代の子どもは、別にモノを大切にしようとしていたわけではないのだ。単にその時代の大人社会に、モノを「浪費」することを「美」とする習慣がなく、それを学ぶ(真似ぶ)機会を与えられなかった(与えられずに済んだ)だけなのだ。
あくまでも社会全体としてそういった習慣が単になかったというだけ。それは、つまり子どもに対し「モノを大切にする」という考え方を、ごく自然な形で提供できて"しまった"ということを意味する。
すなわち、「浪費」を「美」とする今の社会には、その流れに逆らい("不自然に")「モノを大切にする」という考え方を教えるという習慣が育ってはいないのだ。
今の社会に必要なのは、その習慣が育っていないこと、「モノを大切にする」という考え方が社会の流れに逆らい得ること、故にそれを子どもが自然発生的に習得することは絶対にありえないこと、この3点に気づき、その上で新たな「美」を創り、伝えていくことだ。
追伸。結婚披露宴で、悪いとは思いつつも、結果的に食べ物を粗末にしてしまった新郎新婦のみなさん。あなたたちに生まれてくるであろう子どもも、"ごく自然に"育てば、おそらくあなたたちと同じようなことをすることになるでしょう。夫婦となった第一歩で食べ物を踏み潰す、あなたたちから"利口に"学び(真似び)とって。
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